護国山天王寺は、JR山手線日暮里駅南改札口から徒歩2分という便利さ。
地図で見ると線路のすぐ脇にあるお寺なのですが、そうは感じさせない独特の静けさがあります。
境内は手入れの行き届いたお庭があり、訪れた人の休憩スペースもたくさん設けられているためゆっくりできます。
新しくモダンな山門や社務所と伝統的な和建築とのコントラストが素敵です。
併設された谷中霊園の中には、かつて天王寺の五重塔跡地もあります。
谷中霊園もとても良いお散歩コース。
徳川慶喜公墓所や渋沢栄一の墓など、有名どころのお墓もたくさんあります。
この界隈はのーんびりと堪能したい場所です。どうぞお楽しみください♪
護国山天王寺の基本情報
名称 | 護国山 尊重院 天王寺 |
住所 | 〒110-0001 東京都台東区谷中7丁目14−8 |
電話番号 | 03-3821-4474 |
最寄駅 | JR山手線日暮里駅 |
ご本尊 | 阿弥陀如来 |
文化財 | 天王寺五重塔跡(東京都史跡) 塩谷宕陰の墓(東京都旧跡) 木造毘沙門天立像(台東区指定文化財) 旧感應寺(天王寺)富興行関係資料(台東区指定文化財) 絹本着色両界曼荼羅(台東区登載文化財) 絹本着色阿弥陀二十五菩薩来迎図(台東区登載文化財) 絹本着色天台大師画像(台東区登載文化財) 銅造釈迦如来坐像(台東区登載文化財) |
公式サイト | http://www.tendaitokyo.jp/jiinmei/tennoji/ |
御由緒
護国山天王寺の案内板に下記のように書かれています。
日蓮上人はこの地の住人、関長耀(せきながてる)の家に泊まった折、自分の像を刻んだ。長耀は草庵を結び、その像を泰安した。
ー伝承による天王寺草創の起源である。一般には、室町時代、応永(一三九四〜一四二七)頃の創建という。
『東京府志料』は「天王寺 護国山ト号ス 天台宗比叡山延暦寺末 此寺ハ本日蓮宗ニテ長耀山感応寺ト号シ 応永ノ頃ノ草創ニテ開山ヲ日源トイヘリキ」と記している。東京に現存する寺院で、江戸時代以前、創始の寺院は多くない。天王寺は都内有数の古刹である。
天王寺案内板より
はじめは日蓮宗で、「長耀山感応寺」であったといいます。
後述しますが、その後幕府の弾圧により改宗されられるという悲運の歴史を辿ります。
弾圧と改宗の歴史
文禄4年(1595年)、豊臣秀吉の時代に、日蓮宗は「受布施派」と「不受布施派」とに別れることになりました。
発端は秀吉が亡き母(北政所)の回向(えこう/成仏を願って供養をすること)のため、千僧供養(千人の僧を集めてする法要)に日蓮宗からも出仕をするよう命じられたことです。
日蓮宗の教えには、法華経を信じない者からは布施を受けず法を施さないという教えがあったため、「不受布施派」は教えに従い出仕を拒否しました。
一方で秀吉に逆らえば寺が取り潰しにあう恐れから、幕府に従い寺を守ろうとする「受布施派」が生まれ、対立を産むことになったのです。
江戸幕府になったのちも、不受布施派は権力に屈せず政治の妨げになる恐れから、たびたび幕府の弾圧に遭ったようです。
護国山天王寺は「不受布施派」に属する寺(当時は感応寺)でしたので、元禄11年(1698年)改宗を命じられました。
けれどもこの命に抗い、住職であった日遼は八丈島に島流しに。
日蓮宗関係の品々も近隣の寺院に移され、感応寺は実質的に取り潰しの危機となりました。
しかし、天台宗の僧侶で「輪王寺」住職であった公弁法親王(こうべんほっしんのう)は、由緒ある寺が廃寺となることを惜しみ、天台宗寺院として存続させるよう幕府に訴え認められました。
5代将軍綱吉が大檀那となり、住職は慶運大僧正(のちの長野善光寺中興)が勤めました。
本尊は、当山が上野寛永寺の北方にあたることから毘沙門天像が安置されました。
天保4年(1833年)、日蓮宗へ戻そうという動きが起こりましたが失敗し、この時「護国山天王寺」へと改称されています。
毘沙門堂
向唐門を入ってすぐのところにあるのが「毘沙門堂」です。
谷中七福神の期間はご開帳されるとのことですが、10月でもお堂が少し開いていて、肉眼で見ることが出来ました。
毘沙門天像は像高116.8cm、平安時代後期に作られたものになります。
改宗後ご本尊でありましたが、今はこちらに安置されています。
脇侍に吉祥天・善膩師童子(ぜんにじどうじ)を置きます。こちらは江戸時代作とのこと。
戊辰戦争(1868年)の時、天王寺は幕府方の兵営(兵士が居住するところ)となったため、官軍との戦闘に巻き込まれ焼失しました(刀傷のある柱が今も残っている)。
現在の毘沙門堂は、今はない「五重塔」の焼け残った材木を使用して昭和36年に再建されたもの。
この五重塔については後述します。
ご本尊であった毘沙門天像と脇侍二体は戊辰戦争時には四谷の安禅寺に預けられ無事でありました。
\谷中七福神の記事も見てね/
幸田露伴小説「五重塔」のモデル
谷中霊園の中に「五重塔跡」という場所があります。
今は何もないただの空き地ですが、この五重塔は幸田露伴の小説のモデルになった五重塔なのです。
案内板には下記の通り記載があります。
谷中の五重塔は、天王寺(旧感応寺)の塔として正保元年(1644年)に創建されました。安永元年(1772年)に焼失しましたが、天明八年(1788年)に再建工事が開始され、寛政三年(1791年)に完成しました。以後、160年、幸田露伴の小説『五重塔』のモデルにもなった五重塔は、度重なる災害や、戦争に耐え、谷中のランドマークとして親しまれてきましたが、昭和32年(1957年)7月に焼失してしまいました。
谷中霊園内案内板より
天王寺五重塔は、1772年に明和の大火により焼失するが再建。
戊辰戦争では傷みはしたものの焼失は免れ、修繕が施されました。
ところが昭和32年(1957年)、小説の題材になった谷中五重塔放火心中事件によって、ついに焼失してしまいました。
この時、塔の下部は焼け残り、毘沙門堂再建の材として使われました。
谷中暮色
五重塔火災の映像が残されていました。
当時、消火活動にあたっていた消防団長が記録撮影していたそうですが、このことを知った舩橋淳監督がドキュメントフィクション映画を作成しています。
「谷中暮色」公式サイトと予告動画
http://www.deepinthevalley.net/
こちらはニュース映像。火事の悲惨さがわかります。ナレーションが酷い^^;
富くじ
元禄13年(1700年)、天王寺は徳川幕府より富くじの興行が許され大いに賑わいました。
目黒不動、湯島天神とならび江戸三大富くじの一つとされます。
江戸時代の富くじは勧進の意味を持ちます。
つまり寺社普請のための資金集めです。
この裏には幕府の財政難が背景にあり、寺社の修復費用などは自分たちで資金調達してね、ということで許され盛んになったようです。
時の将軍は徳川綱吉の時代・・・。
天王寺(当時は感応寺)は火災に遭ったこともあり、毎月興行が許されたり、享保13年の禁止令の後にも許されたりしたのですが、天保13年、老中・水野忠邦が天保の改革をおこなったことで途絶えました。
銅像釈迦如来坐像
天王寺山門から境内に入るとまず驚かされるのが、立派な釈迦如来坐像です。
モダンな山門の向こうに一際オーラを放つお姿!
周りには紅葉などが植えられ、木々と一緒に写真を撮ると楽しいです。
本像については、『武江年表』元禄三年(一六九〇)の項に、「五月、谷中感応寺丈六仏建立、願主未詳」とあり、像背画の銘文にも、制作年代は元禄三年、鋳工は神田鍋町に住む大田久右衛門と刻まれている。また、同銘文中には「日遼」の名が見えるが、これは日蓮宗感応寺第十五世住持のことで、同寺が天台宗に改宗して天王寺と寺名を変える直前の、日蓮宗最後の住持である。
昭和八年に設置された基壇背面銘文によれば、本像は、はじめ旧本堂(五重塔跡北方西側の道路中央付近)右側の地に建てられたという。『江戸名所図会』(天保七年「一八三六」刊)の天王寺の項には、本堂に向かって左手に描かれており、これを裏付けている。明治七年の公園谷中墓地開設のため、同墓地西隅に位置することになったが、昭和八年六月修理を加え、天王寺境内の現在地に鉄筋コンクリート製の基壇を新築してその上に移された。さらに昭和十三年には、基壇内部に納骨堂を増設し、現在に至る。
なお、「丈六仏」とは、釈迦の身長に因んで一丈六尺の高さに作る仏像をいい、坐像の場合にはその二分の一の高さ、八尺に作るのが普通である。
本像は、明治四十一年刊『新撰東京名所図会』に「唐銅丈六釈迦」と記され、東京のシンボリックな存在「天王寺大仏」として親しまれていたことが知られる。
平成五年に、台東区有形文化財として、区民文化財台帳に登載された。
釈迦如来坐像案内板より
大きな釈迦如来を下から見上げると、木々の枝葉と青い空。
自分の立っている空間ごとお釈迦さまに守られている感じがして、なんとも心地よい気持ちでした。
本堂
釈迦如来坐像のインパクトとは対照的に、その奥に佇む本堂はなんとも落ち着いた雰囲気です。
こちらは奈良の「十輪院」を模した建物だそう。
確かに似ている・・・
おわりに
護国山天王寺は、広大な谷中霊園の片隅に佇むモダンな寺院です。
初めて訪れた時には、谷中霊園の歴史ある雰囲気とのギャップに驚きました。
霊園内も公園スペースが各所に設けられ、人々がお散歩を楽しむのんびりとした雰囲気なのですが、天王寺境内は更にのんびりとした時間が過ごせます。
ベンチや座れるスペースも大変多いので、美しいお庭を心ゆくまで堪能できます。
初春のポカポカ陽気などは最高です!
ところが調べてみたら、天王寺は大変に数奇なエピソードがたくさんありました。
日蓮宗の弾圧と改宗、戊辰戦争、放火事件など・・・。
その末に今の穏やかな空間があるのだと思うと感慨深いです。
中学の国語で学んだ幸田露伴の五重塔も、再度読んでみたいと思います。
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