北総線新柴又駅を降りて、東に3分ほど歩くと何やら視線を感じます。
塀の上から「広目天像」がこちらを睨んでいるのです。
ここが「薬王山瑠璃光院医王寺」。
広目天像は医王寺の山門の2階部分に安置されており、ちょうど外塀の上に立つように見えてきます。
医王寺、正門に着く前からワクワクではないですか?
個性的な見どころがたくさん!おもしろい逸話がたくさん!
なぜ医王寺は「そば寺」と呼ばれるのか!?
細かいことは謎のベールに包まれる医王寺ですが、わかった部分だけでも充分魅力的。
医王寺の魅力、いっぱい感じてください!
医王寺とは
名称 | 真言宗豊山派 薬王山瑠璃光院 医王寺 |
住所 | 東京都葛飾区柴又5-13-6 |
電話番号 | 03-3657-0275 |
最寄駅 | 北総線新柴又駅 |
拝観時間 | 9:00〜16:00 |
ご本尊 | 薬師如来 |
公式ホームページ | https://www.ebisuten-iohji.jp/ |
医王寺の御由緒
医王寺山門前の案内板には下記のように記されています。
応永14年7月7日、時の将軍足利義満公が、奇病(赤目病)が下総国一円に発生し住民が全滅の危機にさらされているのを聞きおよび、時の後小松天王に悪病退散の祈願寺の建立を上奏し、京都仁和寺の僧・観見和尚に薬師瑠璃光如来を奉持させ、柴又村の当地に建立したものである。
赤目病とは、両目が最初充血し、悪化するにつれ「目やに」が出てやがて瞳が白く濁り「下まぶた」が垂れ下がり赤くはれ上がり、最後には失明してしまう恐ろしい奇病で原因は不明であったと云う。当時の目の病に苦しむ村人たち、近郷近在より参詣に訪れたと聞く。此の奇病にかかった村人が昭和二十年頃を最後に、以降赤目病患者は当地より消えたのである。
当山では、境内より湧き出る清水(現存しない)と護符と赤目薬を室町時代より昭和中期まで眼病祈祷札と共に出していたが、終戦後薬事法の定めにより今は出していない。だが現在でも、眼病を護る仏として参詣に人々が訪れている。
医王寺 案内板より
医王寺の山門の扉に足利家が後醍醐天皇から賜ったとされる家紋(五七桐紋)が刻印されています。
もともとは「下総国分寺下の薬王寺」と呼ばれていましたが、小田原の北條氏と安房の里見氏が利根川(現在の江戸川放水路)を挟んで対峙した国府台合戦で焼けてしまったとのこと。
1538年(天文7年)に僧・源珍(げんしん)が中興(衰えた物事を再び盛んにすること)しましたが、源珍の没後は再び衰退。
寛永年間(1624〜44年)、金蓮院の僧が再度中興し、「医王寺」と改名したとのことです。
現在の宗旨は、真言宗(弘法大師)豊山派。
本山は奈良県桜井市の『長谷寺』になります。
医王寺の御本尊
ご本尊は薬師如来像で、古くから秘仏とされています。
薬師如来は「薬師瑠璃光如来」とも言い、医王寺の院号「瑠璃光院」にも「瑠璃」という言葉が見られます。
「瑠璃」とは、仏教の七宝(しちほう)の一つ。
七宝とは、「無量寿経」では「金・銀・瑠璃・玻璃(はり)・硨磲(しゃこ)・珊瑚・瑪瑙(めのう)」とされます。
瑠璃とは・・・ラピスラズリのことと言われる
玻璃とは・・・水晶のことと言われる
硨磲とは・・・シャコ貝の殻、または白色の珊瑚
つまり「瑠璃光」とは、宝石のように美しい青色(または緑色)の光を表します。
薬師如来の浄土は「浄瑠璃」となり、芸能の浄瑠璃は薬師如来の霊験譚を交え神仏の功徳を説いたところから始まったそうです。
神秘の光を纏った薬師如来をご本尊とし、医王寺は奇病の人々の拠り所となりました。
ご本尊のお写真は医王寺公式ホームページで見てね!
なかなかシュッとして知的な印象です。
医王寺の恵比寿天
医王寺の恵比寿天像については、公式ホームページの紹介文が面白いです!
一般の恵比寿天と違って、鯛は左脇に抱えておらず、足下の波間からいまにも釣り上げんとする独特のお姿です。
お姿のご開帳期間は元旦から七草までですが、本堂正面に向かって少し右の窓際に安置してあるため、期間外でも堂前よりガラス越しに拝むことができます。
後背の葛籠に入れて背負うことが出来るよう小さく作られていることが災いして、残念ながらこの像は現在三代目で、初代と二代は盗難にあって行方不明です。
公式ホームページより
初代と二代は、鯛を左脇に抱えているお姿でした。
他にはない「鯛は左脇に抱えておらず、足下の波間からいまにも釣り上げんとする独特のお姿」、ぜひご自身の目でご覧ください!
(ガラス越しのため写真は写りませんでした・・・)
ちなみに、医王寺のホームページには下記の注意書きが書かれています。
尚、本堂前の立札にある恵比寿天の由来文は、中興祖源珍の蕎麦供養恵比寿天勧進伝が原文ですが、誤った印象を与える表現となっていますのでご注意下さい。
公式ホームページより
「本堂前の立札」に書かれているのはこちら。
中興祖源珍僧津という御方が宗祖弘法大師の足跡を巡業中、村人より一体の恵比寿天を戴かれ、山中に安置し香華供物を供え二十一日間の御修行をすると、川底より砂金を掬い上げた。後に恵比寿天を礼拝すれば商人は金銭意の如く集まると唱え、多くの世人に広めた。当山代々住職は、その偉業を尊び伝承し今日に至らしめたものである。
本堂前案内板より
実際に「蕎麦供養恵比寿天勧進伝」に書かれているのは、下記の通りです。
全国行脚の途中、山中(地方・場所は不明)で脚気(かっけ)による歩行困難に陥った際、山人より恵比寿天像と蕎麦粉の寄進を受けた。渓流にて蕎麦を練って食しながら、恵比寿天を二十一日間礼拝供養した。やがて脚気が癒えた頃、不思議なことに蕎麦粉を練る渓水の中に砂金を見いだした。
「蕎麦供養恵比寿天勧進伝」より
医王寺が「そば寺」と呼ばれるいわれとなった、「蕎麦を練った渓流」というのが重要ですね!
源珍はこれ以降、飢饉を救うべく荒れた土地でもよく育つ蕎麦の栽培を勧め、恵比寿天に蕎麦を供えて礼拝することを推奨したとのことです。
医王寺の山門と仁王像
山門前の案内板によると、山門と仁王像は平成4年11月完成とのこと。
山門は木曽檜作り(大和田儀己工匠)、仁王像は大物資松本明慶作になります。
仁王像の作者・松本明慶とは
医王寺山門の仁王像の作者、松本明慶は京都の仏師です。
1945年(昭和20年)生まれ。19歳の時に京仏師野崎宗慶に師事。
1991年総本山より「大仏師」の称号を与えられる。
京都市・京都府の文化功労賞など、数々の賞を受賞しています。
現在、京都に工房を持ち、「松本明慶佛像彫刻美術館」が開設されており、松本明慶大仏師の作品を生で見ることができます(拝観の際は工房へ予約が必要とのこと)。
医王寺山門の四天王像
医王寺の山門には、四天王像が安置されているのが見えます。
四天王は四方を護る守り神として山門や都市の東西南北の位置に安置されます。
戟(げき)を持つ増長天は南を
矛(ほこ)を持つ持国天は東を
宝塔を持つ多聞天は北を
巻物を持つ広目天は西を
それぞれ守っています。
駅から医王寺に歩いてくると、まず見えるのが広目天。
思わず「おおっ!」と目を惹く個性的な山門なのです。
蕎麦地蔵尊
医王寺には、足元に”せいろ”に盛られた蕎麦がお供えされた地蔵があります。
「蕎麦地蔵尊」と呼ばれ、今でもお蕎麦屋さんがお参りにみえられるそうです。
足元にたくさん並んでいる可愛らしい小さなお地蔵さんは、医王寺の縁起物「お願い地蔵さん」。
500円です。
古いお願い地蔵さんは蕎麦地蔵前に安置する慣わしになっているとのことで、たくさん安置されており人気が伺えました。
そのほかの境内
医王寺の境内の見どころはまだまだあります!
弘法大師像
山門を入ってまず目に飛び込んてくる弘法大師像。
足元には可愛らしいお地蔵さんがいます。
こちらは南葛八十八ケ所霊場五十七番大師像になります。
庭園
弘法大師とお地蔵さんは素敵なミニ日本庭園の中にありますが、そこに置かれた石の背後には「納新本堂落慶記念 奉 杉浦造園」とあります。
二十五菩薩像
本堂の壁には二十五菩薩像が!
二十五菩薩とは、ご臨終の際に阿弥陀様を中心に迎えに来てくださる菩薩たちのことです。
ちょうど見上げる位置になるので、本当にお迎えに来てくださった心持ちになります。
正面から見られるのは六体。
四方の壁の全てにいらっしゃるかどうかは不明でした。
おわりに
柴又医王寺は「柴又七福神巡り」の「恵比寿天」を配するお寺です。
このサイトのモデルコースでは、この医王寺から順に回るコースを取っています。
「これから七福を巡るぞ・・・!」という気合い入れにぴったりのお寺だと思いました。
なぜなら・・・俄然、モチベーションが上がるから!
色々と個性的で、ワクワクが止まりません(笑)。
この日はご住職とお話しすることは叶いませんでしたが、ホームページを拝見するに、大変心意気があり、新しいことへも臆さず取り組む姿勢が窺えます。
足利義満のゆかりの寺ということもあり、気力満ち溢れるお寺でぜひパワーを充電してください!
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