車通りの激しい清澄通り沿いにある心行寺は、表からでも境内の閑静な空間が感じられます。
秋口には、深川七福神福禄寿を安置する六角堂や、川口直が夫のために建てたという宝筺印咒塔がある辺りには見事な紅葉が見られます。
ひっそりとしていますが、一つ一つに案内板があったり、全体の景観のバランスが素晴らしかったり、丁寧に心を込めて管理されているのだなあと、住職や檀家さん、地域の皆様の心を感じることができました。
静かに、景色を楽しむのにぴったりなお寺です!
心行寺の基本情報
名称 | 浄土宗 双修山 心行寺 |
住所 | 〒135-0033 東京都江東区深川2丁目16−7 |
電話番号 | 03-3641-2566 |
最寄駅 | 東京メトロ東西線門前仲町駅徒歩5分、東京メトロ半蔵門線清澄白河駅徒歩10分 |
ご本尊 | 阿弥陀如来 |
公式ホームページ | http://www.shingyoji.or.jp/ |
心行寺の御由緒
心行寺の案内板には下記のように書かれています。
双修山養源院と号し、元和二年(1616年)京橋八丁堀寺町に創立、開山は観智国師の高弟光蓮社団誉一路屋道上人、周防岩国城主 吉川監物の室 養源院殿の発願開基による。
寛永十年(1633年)現在地に移転、当時境内地は、間口四十二間奥行四十二間総坪数一七六四坪、影窓院 正寿院の二末寺があった。
大正十二年関東大震火災の厄にかかり、昭和七年再建された本堂庫裡も同二十年戦災のため再度烏有に帰した。
現本堂は、朝香富三氏設計により奈良平安朝様式に現代風を加味し、昭和四十三年に落慶した。
本堂両脇間に観無量寿経変相図(曼荼羅)ならびに三尊来迎図(守屋多々志画伯模写)がある。
心行寺境内案内板より
開基養源院の夫「吉川監物(けんもつ)」とは何者か?
googleで「吉川監物」と検索すると、「吉川経幹(つねまさ)」を解説するwikipediaの記事が出るのです。
ところが巷のブロガーさんの記事では「吉川広嘉」としている記述が多く見られます。
この矛盾は何だろう?と調べてみました。
「広嘉」説の出どころは、おそらく江東区のホームページです。
そもそも勘違いしていましたが、「監物」というのは役職の名前になります。
知らなかった・・・
インターネットで調べてしまうと経幹のことしか出てこないので混乱しますが、吉川家に監物は4名該当しました。
吉川広嘉、吉川経倫、吉川経礼、そして経幹です。
養源院は1654年没とのことですが、広嘉以外の3名は皆1800年代の生まれであるため、年代が合うのは広嘉のみ、ということになります。
吉川広嘉は、岩国領3代領主で、日本三大奇橋に数えられる錦帯橋を架橋した人物です。
詳しくはこちら(Wikipedia)をご参照ください。
川口直の宝筺印咒塔(北州塚)
文化文政の頃江戸の名妓であった川口直が、その夫忠七の菩提を弔うために建てたものである。
川口直は、大田蜀山人作詩の清元「北州」に、あの甲高い節付けをしたので有名で、又隅田村から小梅村の境まで、独力で楓樹を植えた。幕末の頃、その紅葉は向島の名物でもあった。
芸妓をやめて日本橋薬研堀に「川口」という料亭を開き、後、浅草橋に移って胡麻味噌の石焼き豆腐を呼び物にして、非常に繁昌した。
夫の忠七は、「竹明」と号して笛の名手であった。
心行寺境内案内板より
北州とは、浄瑠璃の重要な曲の一つ「北州千歳寿(せんねんのことぶき)」のことです。
吉原遊郭のことを「江戸の北の意」の隠語で北州と呼んでおり、吉原の年中行事と四季の風物を歌った華やかな演目です。
その北州の作曲者が川口直(川口お直)。
心行寺の宝筺印咒塔(ほうきょういんじゅとう)はお直が夫のために建てたもの。なぜこの心行寺にあるのか、詳細はよく分かりません。
真先稲荷・田楽茶屋川口屋
ところで、案内板に記載されている、川口直のやっていたという「料亭」が気になりました。
調べていくと、「真先(まっさき)稲荷神社」付近で田楽茶屋川口屋を営んだとのこと。
この辺りには当時田楽茶屋が何軒も並んでいて、その中の一つが川口屋でした。
真先稲荷神社の所在地は現在の荒川区南千住の石浜神社境内で、吉原にも近いので芸妓だった川口直が店を出す必然性が想像できます。
でも、案内板では、店を出していたのは「浅草橋」となっています。
現在の浅草橋は神田のお隣になります。
「浅草」と「浅草橋」との記述誤りによるものか、とも思いましたが、最初の料亭が日本橋にあったとのことで浅草橋でも可能性はある気がします。
もしかしたら日本橋料亭ののち浅草橋で味噌豆腐で繁昌し、そのノウハウを持って最後に真先稲荷神社で田楽茶屋を営んだのかもしれません。
影窓院地蔵
こちらは詳細分からず、案内板の引用のみとさせていただきます。
「御府内備考続編」によると、この石造地蔵菩薩立像は、当寺に影窓院と正寿院の二つの塔頭(たっちゅう)があり、影窓院にあったので、この呼称がある。
結縁寺蔵として縁むすび、願いごと成就の地蔵尊として江戸時代から参詣の人々で大いに賑った。
心行寺境内の案内板より
江東区最古の五重石塔
空風火水地五層の石塔で「元亨四年」の銘がある。
元亨四年は一三二四年で、江東区内に現存するもののうちで最も古い年号を記録している。
心行寺境内の案内板より
五重塔とは、5つの屋根により五大思想を表現した仏塔のことです。
下から「地(基礎)」、「水(塔身)」、「火(笠)」、「風(請花)」、「空(宝珠)」となります。
元亨4年(1324年)は鎌倉時代で、この年は後醍醐天皇が鎌倉幕府の討滅を画策し失敗した「正中の変」がありました。
この辺りの史跡は江戸時代のものが多く、鎌倉時代のものと聞くとその貴重さがよく分かりますね。
深川七福神 福禄寿
心行寺は深川七福神の寿老人を安置しています。
安置されるのは「六角堂」。
仏教では「六道輪廻」という考え方があり、人間は6つの世界を生まれ変わり輪廻を繰り返すとされています。
六道とは、地獄道、飢餓道、畜生道、修羅道、人間道、天道のこと。
「六角堂」はその六道輪廻の世界を現しているのです。
そこに安置されるのが「福禄寿」。
福禄寿は南極星と同一とされる福をもたらす神さまです。
頭がながく、耳たぶが大きいのが特徴。
また、宝珠と杖を持っています。
六角堂前になんだかファンキーな石像があります。
現在はコロナ感染防止のため触れることは出来ませんが、以前は宝珠に触れてパワーを頂いていました。
おわりに
心行寺の重要な史跡としては、江戸の文化人たちの墓がたくさんある、ということを忘れてはなりません。
五世鶴屋南北、工藤琳甫など。
開基養源院や石川忠七・直夫妻も墓があります。
墓があるのは一般の墓地の中であるため、観光で踏み入ることは今回は遠慮しましたが、静かに見学することは可能なようです。
また、境内は秋の紅葉が大変美しいです。
お正月の七福神巡りの賑わいも楽しいですが、紅葉時期、ひっそりとした境内を独り占めするのも良いものですよ♪
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