東京メトロ東西線門前仲町を出ると、両側に趣ある飲食店や老舗の和菓子屋さんなどが並ぶ商店街があります。
ここは元々、永代寺の門前町として栄えたそうで、今は富岡八幡宮や深川不動尊の門前町となっています。永代寺自体は今はないそうです。
商店街を楽しみながら歩いて行くと、一際大きな鳥居に出くわします。
すぐ横にお店が立ち並び賑わいを感じさせます。
鳥居をくぐったすぐのところには「深川めし」の看板が。
「深川宿」というお店でした。
のっけから独特の神社の予感がしましたが、中に入ると思った以上に色々な発見がありました。
大相撲の先祖「江戸勧進相撲」発祥の地であり、今も横綱が土俵入りを奉納する儀式があったり。
有名なスピリチュアルの先生が紹介して大人気になったパワースポット「七渡神社」があったり。
歴史も空間も大満足の神社です。
富岡八幡宮の基本情報
名称 | 富岡八幡宮 |
住所 | 東京都江東区富岡1丁目20番3号 |
電話番号 | 03-3642-1315 |
最寄駅 | 東京メトロ東西線、都営地下鉄大江戸線「門前仲町駅」 |
御祭神 | 応神天皇(八幡神)、恵比寿天ほか合祀 |
御由緒
寛永4年(1627年)菅原道真の末裔と言われる長盛法印が、夢の中でご神託があり、横浜の富岡八幡宮を分霊し創建されました。
ご神託の内容は、“(夢の中に菅原道真公が出て)「武蔵の國に永代島といふあり。わが宮居せんところには白羽の矢たちたらん」という御神示に導かれ永代島を探し当て、一本の白羽の矢が納められている小さな祠を見つけ、そこに社殿を創建した(公式ホームページ記載)”とのこと。
富岡八幡宮で「白羽の矢」を授与している(授与期間はお正月のみ)のはここに由来があるのですね。
横浜の富岡八幡宮は鎌倉幕府の鬼門の方角にあたる海に面した山に祀られており、幕府の厄災防除の神とされました。この山が応長の大津波(1311年)から部落を守ったことから「波除(なみよけ)八幡」と称され、あやかって埋立地である深川の富岡八幡へも分霊されました。
徳川は源氏の血筋を受け継ぐとされ(諸説あり)、源氏の氏神である八幡宮を手厚く保護したとのことです。
創建当時は永代島と呼ばれる小島だったのが、周辺の砂州(さす)一帯を埋め立てたのち6万508坪もの社有地となり栄えました。
江戸勧進相撲発祥の地
富岡八幡宮でまず初めにチェックしたいのが「江戸勧進相撲発祥の地」ということ。
境内には歴代の大関や横綱の手形が刻まれた記念碑や、江戸時代に活躍した巨大力士「釈迦ケ嶽」の等身碑があります。等身は226cmです!
江戸時代にこの身長は今より一層目立ったことでしょう。
勧進相撲とは・・・神社仏閣の修復費用の調達を目的とした相撲興行のこと
勧進相撲は1600年前後に盛んになりましたが、浪人や侠客が出入りするようになるとトラブルが絶えず、1648年江戸幕府は禁止令を出しました。
数十年後に緩和されることになり、春と秋の二場所、富岡八幡宮境内でのみ許されることになりました。これが現代の大相撲の始まりとされます。
※のちに本場所は両国の本所回向院へと移ってゆきます。
現在でも横綱が誕生すると横綱力士碑へ刻名式が行われ、新横綱土俵入りが奉納されます。
深川八幡祭り 別名水かけ祭り
富岡八幡宮の例祭「深川八幡祭り」は江戸三大祭りの一つ(赤坂の日枝神社の山王祭、神田明神の神田祭)です。
別名「水かけ祭り」と称され、沿道の群衆から担ぎ手に清めの水が浴びせられる慣わしがあります。
八幡宮の御鳳輦(ごほうれん)が渡御(とぎょ)を行うのは3年に一度で、「本祭り」と呼ばれ53基の町神輿が勢揃いするとのこと。
写真でしか見たことがありませんが、圧巻の風景です!
御鳳輦(ごほうれん)・・・屋根に鳳凰の飾りのある天子の車
渡御(とぎょ)・・・天皇や将軍のお出まし、ご神霊が神輿・船などで巡幸する事
八幡祭り特設サイト
神輿庫
表参道の神輿庫に御鳳輦(一宮神輿・二の宮神輿)が置かれており、ガラス越しに見ることができます。
見たとたん「豪華絢爛!」と叫んでしまいそうになるくらいキラキラしています。
表面は純金、鳳凰の目にはダイヤモンドが使われているとか。
一宮神輿は日本最大となり重量は4.5トンと案内板に書かれています!
ガラスに反射して細部まで見ることは出来なかったのですが、オーラがものすごくて圧倒されました。
富岡八幡宮御本社神輿(日本一の大神輿)
当八幡宮には、江戸時代深川に屋敷のあった紀伊國屋文左衛門より三社託宣に因み八幡造り・神明造り・春日造りの三基三様の神輿が奉納され、みこし深川と云われて参りましたが大正十二年の関東大震災で惜しくもその全てを消失してしまいました。それ以来、御本社神輿の復活は深川っ子の念願でありましたが、平成の御代になり漸く、昔に優るとも劣らない豪華な大神輿が復活致しました。
・型の名称 屋根延神社型金地塗神輿
・台輪幅 5尺
・高さ 十四尺五寸(約4メートル)
・重量 四・五トン(渡御時における推定)
・屋根の大きさ 最大幅十尺(蕨手装着時)
・担ぎ棒 十本(本棒二本・縦添棒四本・横添棒四本)
・ダイヤモンド
鳳凰の目(四カラット二個)鳳凰の火焔(七カラット)
狛犬の目(三カラット二個、一対)
隅木の目(一カラット二個、四体)
小鳥の目(一カラット二個、四体)・ルビー
鳳凰の鶏冠(二,○一○個)
富岡八幡宮神輿庫案内板より
なんたる豪華さ。
この御鳳輦を見るためだけに遠くから足を運ぶ方がいるのもわかります。
但し神輿庫の中に入ることは出来ませんので、日差しが強い時間帯はガラスが反射して見えにくいので避けた方がいいかもしれません。
やはり、大祭に赴いて生の迫力を見たいですね!
伊能忠敬像
鳥居をくぐるとすぐに目に入るのが伊能忠敬像です。
伊能忠敬は18年間で10回に渡り日本全国を測量し、日本の国土を明らかにした人物です。
忠敬50歳の時に深川黒江町に家を構え、測量の際には必ず富岡八幡宮を参詣してから旅に出たとのご縁により、平成13年に銅像が建立されました。
公式ホームページを見ると、深川の人々の想い入れの深さがよく分かります。
近代日本地図の始祖である伊能忠敬先生は、事業に成功したあと五○歳のとき江戸に出て、当宮近くの黒江町(現在は門前仲町一丁目)に隠宅を構えていました。
約二○○年前の寛政十二年閏四月十九日(陽暦では一八◯○年六月十一日)の早朝に当宮に参拝して蝦夷地(北海道)測量の旅に出かけました。
忠敬先生はこのときを含めて全部で一○回の測量を企画しましたが、遠国に出かけた第八回までは、出発の都度必ず、内弟子と従者を率いて富岡八幡宮に参詣して、無事を祈念したのち、千住、品川宿など測量開始地点に向かって歩き出しました。当宮は伊能測量にとってたいへん御縁の深い場所であります。
伊能測量開始二○○年に当、「伊能ウォーク」、地図・測量、土地家屋調査士、伊能忠敬研究会などの関係者が中心となって、広く一般から浄財を公募して建立されました。
平成十三年十月
伊能忠敬像案内板より
伊能忠敬銅像建立実行委員会
七渡神社・粟島神社
七渡神社とは?
鳥居の脇に案内板がありました。
七渡神社
御祭神 市杵島姫命
例祭 六月十七日
縁日 毎月第一巳の日合祀 粟島神社
御祭神 少彦名命
例祭 十月十五日七渡神社は八幡宮御創建以前よりお祀りされ八幡様の地主神として「七渡弁天さま」と呼ばれてまいりました。
七渡神社案内板より
あわせてお祀りされる粟島神社は女性の守り神とされ二月八日には献針祭(針供養)が行われます。
案内板にも書かれているとおり、七渡神社とは富岡八幡宮が創建される前からお祀りされていた地主神です。
「七渡」の名前の由来は、昔このあたりは砂州や沼地だったため7つの島を渡らなければ辿り着けなかったからとのこと。
関東大震災や東京大空襲の被害を受けることなく避難した人々の命を救ったとのことで、パワースポットとしても人気です。
また、付近には神様の使いと言われる白蛇が棲んでいるそう。
とても清澄で魅力的な場所で、弁天池の橋を渡って帰ろうとするのですが何度も何度もお宮を振り返ってしまいました。
富岡八幡宮本殿からは少し離れた場所にあり、人の賑わいから遠ざかったような独特な空気を醸しています。
そのせいか、後ろ髪ひかれるのは弁天様が引き止めてくれているのじゃないか?何か特別なご縁があったのではないか?など、不思議な想像が膨らんでしまいました(笑)。
合末社
富岡八幡宮合末社は下記のとおり。
車祈社・客神社
野見宿祢社
住吉社
聖徳太子社
天満天神社
祖霊社・花本社
合末社(ごうまつしゃ)とは
神社に祀られている御祭神以外の神様。
「末社」は主祭神とあまり関係のない神様であり、関係の深い神様が祀られると「摂社」という。
合末社鳥居
合末社敷地内に二本の石柱があるのですが、なんと元々は鳥居だったとのこと。
東京大空襲で被災したため上部が欠落したのですが、戦争被害の痕跡として遺されているそうです。
合末社鳥居
昭和二十年に合末社の鳥居として建立されました。残念ながら鳥居の上部が欠落していますが、これは昭和二十年三月十日の東京大空襲の被災によるものです。
この大空襲において富岡八幡宮は御本殿をはじめ大部分を焼失しますが、幸い七渡神社・合末社・永昌五社稲荷神社は焼失を免れました。しかし空襲における焼夷弾は、この付近にも落下し、その直撃を受けて鳥居上部が崩れ落ちました。
二度と起こってはならない戦争の痕跡を静かに伝えています。
合末社鳥居案内板より
永昌五社稲荷神社
永昌五社稲荷神社は富岡八幡宮の婚儀殿(結婚式場)の裏手にあり、婚礼姿で写真を撮るカップルの姿も見られました。
幾重にも重なった朱色の鳥居がとてもフォトジェニックです。
ただし、ここの狛犬さんは4匹(鳥居中ほどと抜けたところに一対ずつ)おり、いづれも古そうな石造りで険しい顔立ちをしており、あまりはしゃぐとお叱りを受けそうですのでご注意。
とてもインスタ映えスポットですが、あくまでお稲荷さんであることを忘れず節度ある行動が吉でしょう♪
※この狛犬さんのお顔は「コミカル」「笑っているよう」と捉えている方も多くいらっしゃり、見る人の心の状態によって表情を変えるかもしれません・・・(^^;
↓いかがでしょうか?↓
深川七福神
富岡八幡宮は深川七福神の恵比寿様をお祀りしています。
場所は本殿から少し離れ、西鳥居の近くになります。
「大鳥神社」と書かれた提灯のある鳥居をくぐると、小さなお社が三つ並びます。
手前から順に
大鳥神社
鹿島神社
恵比寿神社
大国主社
金刀比羅社
富士浅間社
となります。
恵比寿様とともに大国主(大黒)様もお祀りされていますが、深川七福神の大黒天は「円珠院」になります。
\深川七福神の詳細はこちら/
また、富士浅間社の背後には富士塚があります。
案内板は境内外(道路沿)にあります。
観光高札
富士塚跡富岡八幡宮社殿の裏には、かつて富士塚がありました。富士塚とは富士山を模したものです。全面が溶岩で覆われ、正面に白い小石(八海湖)、右側に小御岳か烏帽子岩などを配しています。塚は、享保7、8年(1722、23)頃に築かれ、富士浅間信仰の山玉講が文政2年(1819)に再建し、その後昭和40年(1965)頃に解体されました。
富士浅間信仰は、流行病に効力があるとされ、食行身禄が富士山で入定して以降に多くの講が生まれ、江戸では八百八講と呼ばれるほどに流行りました。信者が富士登山を疑似体験する場として富士塚は各地に造られ、富士塚めぐりは江戸庶民の信仰と娯楽の一つとなりました。現在、八幡宮境内にある富士塚は平成14年(2002)に小規模ながら再建されたものです。
江東区
富岡八幡宮 富士塚案内板より
八海湖・・・不忍八海。
講・・・結社のこと。または結社による行事、会合。
食行身禄・・・本名・伊藤伊兵衛。富士講の指導者。1671年生まれ1733年没。
入定・・・真言密教の修行の一つ。空海が今も高野山で瞑想しているとされる伝説的信仰。
おわりに
前々から「門前仲町」という駅名に興味がありました。
いづこの門前なのだろうか!?と。
これは、この辺りが今はない「永代寺」の門前町だったことが由来だそうです。
永代寺は富岡八幡宮の別当寺だったところ。
それならば最早「富岡八幡宮の門前」で良いのではないでしょうか(笑)。
ところが、門前仲町にはもう一つ「深川不動尊」という強力なお寺があります。
こちらも永代寺と深い関係があったそう。
正式名称は「成田山新勝寺東京別院」といい、今も大変な人気です。
境内もなんだか派手!!!
富岡八幡宮は後継者争いのきな臭いニュースなどもありましたが、神社そのものはとても感じが良い空間です。
観光地らしく案内板も豊富ですし、ちょこっと座って休憩できるスペースも設けられています。
街の観光案内の方がいる時は色々とお話しが聞けますよ!
門前仲町の商店街も元気で面白いので、ぜひ一度訪れてみてください♪
コメント